AIが真似できないのは、“人が迷った痕跡”だ。
最初に、あの感覚を思い出してほしい。
Excelのセルを前に、手が止まる。数字は合っている——はず。でも、心のどこかで小さな違和感が鳴る。別の単価表を開き、メールを漁り、現場の記憶を手繰り寄せる。セルに薄い黄色を塗って「要確認」と書き、いったん次へ進む。数時間後、やっぱり戻ってくる。あの“逡巡の跡”が、あなたの仕事を支えている。
AIは計算が速い。推論もうまい。
でも、人が本当に頼りにしているのは「迷いながら決めた」記録だ。そこに、文脈・重み・責任が宿るから。
迷いは“未完成”じゃない。判断の設計図だ
AIは最短経路を探し当てるのが得意だ。
人は遠回りをしながら、最短“だった”道を見つける。ここに決定的な差がある。人の遠回りは無駄ではない。比較した選択肢、捨てた基準、保留した条件——それらが積み上がって、次回の精度を押し上げる。
私たちが日常で残している“迷いの痕跡”は、たとえばこんな形をしている。
- 保留マーク:セルの色、付箋、_仮のファイル名。
- 揺り戻し:一度決めた単価を戻す、別案に枝分かれする。
- 見送り理由:採用しなかった根拠(「数量の根拠弱い」「ロット差異」「現場条件と不整合」)。
AIは最終回答を1つ出すのは得意だが、「見送った案の理由」をきれいに残す文化は、まだ人のほうが圧倒的に上手い。そこが“現場の知性”のコアだ。
現場では、迷いが品質を守っている
建設の見積・積算を例にしよう。
- 図面の書きぶりがいつもと違う。数量は合う。でも、施工性の観点で微妙に危ない。
- 過去案件の単価はあるが、今回の現場は搬入経路が狭い。同じ単価で走れるか?
- 仕様書の一行が気になる。追加精算の火種になりそう。今なら潰せるかもしれない。
ここで役立つのは、“ためらいのログ”だ。
「なぜ止まったか」「どこが弱いか」「どんな確認が要るか」。この3点が残っているだけで、担当が交代しても判断の筋道が再現できる。逆に言えば、痕跡のない意思決定は再現性がない。
AIに足りないのは“結論の外周”だ
AI-OCRで文字を読み、LLMで項目を埋め、ルールで正規化する。ここまでは機械の仕事。
でも、結論の外周にある「ためらいの温度」は、まだうまくデータ化されていない。たとえば——
- 「この数量は80%は正しいが、根拠が薄い」
- 「単価Aが妥当だが、搬入制約のためBに寄せる余地」
- 「相見積のA社は今期の繁忙で納期リスク。価格だけで決めない」
これらは“正解/不正解”の二値ではなく、揺らぎと優先順位だ。
AIが同じ精度に到達するには、迷いのラベルを教える必要がある。
迷いを“残す”ための実装——明日からできる5つ
- 保留を形式化する
「要確認」「要現地確認」「仕様あいまい」など、迷いの種類を3〜5個に固定し、タグで付ける。色や文言をチームで統一する。 - 見送り理由を1行で
採用しなかった単価・工法・業者に、理由を“名詞+条件”で残す(例:「搬入制約」「雨天時リスク」「仮設上振れ」)。長文メモより再利用しやすい。 - 枝分かれを肯定する
v1_案A_標準 v1_案B_仮設重め のように意図をファイル名に埋める。最終版しか残さない文化は捨てる。枝は“経験のアーカイブ”。 - 不確実性スコア
0/1ではなく0〜3段階の不確実性をセル横に置く。AIが学習する時、ここが“揺らぎの教師データ”になる。 - 判断メモの型
- 何を選んだか
- 何を捨てたか
- 何を犠牲にしたか(コスト/納期/安全/将来の保全)
この3点を箇条書き3行で。美文は要らない。“迷いの輪郭”が伝われば十分。
それでもAIを使う理由——“迷いを運ぶ配達員”にする
AIに最終判断を丸投げしない。代わりに、迷いの痕跡を運ばせる。
- AIは、OCR→項目抽出→類似案件検索→“似ているが違う”点の列挙をする。
- 人は、その列挙を眺めて迷いのタグを付け、不確実性をスコアする。
- そのやり取り自体が次回の教師データになる。
「人が迷い、AIが運ぶ」。
この役割分担にすると、人の判断は鈍らず、AIの精度は落ちない。むしろ、チームのスピードが上がる。
属人を悪にしない。“迷い”は個性ではなく資産だ
ベテランの背中には、数え切れない逡巡の跡がある。
それを“属人の魔法”として封印するのか、チームの標準語にして次世代へ渡すのか。分かれ道はそこにある。
- 個人の勘 → チームのラベルへ
- 口頭の注意 → 再利用できる見送り理由へ
- 最終版だけ保存 → 枝分かれも保存へ
迷いを可視化するほど、引き継ぎは軽くなり、意思決定は強くなる。
最後に——“ためらい”を残せる人は、強い
正しい答えだけを並べる資料は、美しい。
でも、現場で本当に役立つのは、正解にたどり着くまでの道筋だ。
- なぜ止まったのか
- どこで戻ったのか
- 何を捨てたのか
この3つが書いてあれば、次の担当者は迷い方を学べる。
AIがまだ真似できないのは、人が迷った痕跡。それは弱さではなく、実務の“強さの証拠”だ。
今日から、ためらいを堂々と残そう。
その小さな付箋が、チームを強くする。次の判断を速くする。未来のあなたを助ける。
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